大広告時代

主に広告について思うことを語ります。その他ネット文化的なことなど。

Apex Legendsの調整にうんざりした

昔、ニンテンドーDSのゲームソフト『マリオカートDS』をよく遊んでいた。また当時のこのゲームのCMをよく覚えている。ナインティナインの二人がマリオとルイージのコスプレをして、「wifiによって離れた友達や全国のライバルと通信対戦できる」という内容だった。


CMの内容にある通り、通信にはニンテンドースポットという一種の公共wifiを勧めていた。当時はまだwifiの家庭普及は極少なかった。今となっては最早思い出せないが。
とにかく、全国の知らない人とオンライン対戦ができると聞いて物凄いワクワクしたことをよく覚えている。


 


私はオンラインゲームが大好きだ。esportsという言葉が流行る前から、オンラインゲームの競技性に夢中になっていた。コンシューマーの一人用ゲームとは違う、無限な切磋琢磨による成長を感じられることが快感だ。毎日の地味な努力の積み重ねの結果を感じられる瞬間がたまらない。

今まで数多くのオンラインゲームをプレイしてきたが、Apex Legendsは中でも最高のゲームの一つだった。そう……最高”だった”ゲームだ。


 

esportsの歴史はやはりまだ浅い。
世のあらゆる長続きしている競技――将棋はルーツを辿れば4000年モノだ――はなぜ長続きしているのか?それは確率したルールによる安定性に他ならないと思っている。
日本で人気なスポーツは野球、サッカー辺りだろう。マインドスポーツでは将棋ぐらいか。

これらはルールがとてもしっかりしている。当たり前のような話に聞こえるかもしれないが、esportsにはこの確立したルールが全くもって無いと私は考えている。なぜなら歴史が浅く、またゲームは企業の商品に過ぎないからだ。

 

 

 

例えば将棋において、「歩(1ターンに1マス前にしか進めない)が弱すぎるので、強化しました。」なんてことが行われたらどうだろう?野球において、「バッターがあまりにも打つことが難しいため、カーブを禁止しました。」というルールが追加されたら?サッカーにおいて「ゴールが狭くて中々点が入らないので、横幅を2m広くしました。」と急に変わってしまったら?

ありえない戯言を話しているように聞こえるだろうが、esportsにおいてこのような調整は当たり前である。なぜなら、繰り返すが、esportsは歴史が浅いからだ。

野球やサッカーが確立されたルールで成り立っているのは何百から何千年も経っているからだ。どのスポーツも昔は今と全然違うルールで行われていた。その昔の素朴なスタイルから何度も何度も調整を重ねて、皆が納得いく形に向かった結果が、安定した今のスタイルなのだ。


 

加えてesportsというのはやはりあくまで商品に過ぎない。述べてきた競技と違って、プレイヤーがゲームをすること自体が企業にとって利益である。その観客やスポンサーからの収益は相当発達してきているように見えるものの、やはりまだ本質ではない。飽きることなく継続的に遊んでもらうためには、プレイヤーから出る不平不満を常に汲み取らなければならない。
実際、大体のオンラインゲームはバランスが悪い。例えばキャラクターが100体いるとして、その内30体は使い物にならないし、3体ほどはOP(ゲームを壊すほど最強)がいる。結局、環境(よく見るキャラクターと言って差し支えない)には20体ほどしかいない。これはバランスが良いとは言えないだろう。将棋やチェスに一切使わない駒がいるだろうか?

 

 

 

オンラインゲームの運営はこのバランスを完璧にすることは不可能であると言い切れる。なぜなら絶対に「新キャラ」が生まれるからだ。新キャラが生まれるとどうなるか?運営はそれまで調整に熱心で、何千粒もの砂金の山から、ゴミを取り除き続け、その純度は遂に90%までとなったとしよう。100%という調整における神に近づいた瞬間、新キャラ……大量の水が砂金の山に降り注ぐ。一見何も無かったように見えたので、運営は再び90%の純度を高める作業を始める。しかしその水とは、白金混じりの塩酸だったのだ。こうなるともう純度90%どころの話ではない。調整は不可能だ。しかも更新頻度の高い昨今の人気タイトルでは、この謎の水は下手したら1ヶ月に1回も降ってくる。

もし新キャラを生み出すことなく、じっくりと調整を続けることができたら、100年後ぐらいには完璧な調整が出来上がるかもしれない。しかし新要素を生み出し続けて、それによる利益を追い求め続けることは企業にとって当たり前である。新要素を生み出すことのないマネタイズ手段があるなら是非見てみたいが、日々ライバルが生まれる――PUBGにとってのFortnite、Apex、Hyper Scapeのことだ。――ゲーム業界においてそれも不可能だろう。

 

 

 

 

ここのところ私はオンラインゲームにうんざりしてきた。こうしたバランス調整に振り回されることに疲れてしまった。昨日まで強いと信じ練習してきた武器が、今日には産廃(使い物にならないゴミのことだ)に変わってしまう。新たに強いと噂の武器も、いつゴミと帰すか分からない。一日中ゲームをやる時間がない限り、この鍛錬の切り替えは追いつかない。

最近はApex Legendsというゲームをそれはそれは一生懸命やっていたのだが、ついこの前行われた大きすぎるアップデートによって、一瞬にしてこのゲームのことが好きではなくなってしまった。今後このような調整を繰り返すかもしれない不信に耐えられなくなった。(表題とずれるが、いつまで経っても直らないバグにもうんざりした。)

時代が進化し、ゲームは昔から考えれば夢のような環境だが、もうそれにも疲れてきた。一周回って、ニンテンドー64ぐらいのボリュームのゲームを今こそプレイすべきかもしれない。

天気の子 感想

『君の名は』は歴史的な名作だったと思う。私の浅い人生の中で、あれ以上の興奮と感動はなかったと言ってもいい。やはりなんといっても巨大クレーターの外周を別次元で走り周り遂に出会うシーンがお気に入りだ。最高に心踊った新海誠作品の新作が公開されるというのだから、これは公開日に見に行かないわけにはいかない。

 

さて『天気の子』感想。以下ネタバレを多少含みます。

 

 

 

まずはやはり描写力の凄さ。

よく考えてみればこの映画は劇中の8割以上は雨が降っている。それでも終わってみれば一番印象に残っているのは、細かい雨の描写(勿論これも大変素晴らしかった)よりも、あの天空世界のような「晴れ」である。綺麗な青空が美しいのだ。「きれいに晴れている空を見てるだけで、なんだか生きててよかったな」とまさに思えるような。

また上映中現実の外ではどうやら夕立が降っていたようで、映画館を出る時なんとも言えぬ空気を味わえたのは幸運だった。「天気とは天の気分」なのだ。

 

 

雨から晴れへの移り変わり、この緩急を手伝った劇伴について。

三浦透子の大抜擢である。歌のみでの参加となったこの女優は無名とまでは決してないようだが、その歌声は無論聞いたこともないような、まさに「晴れを届ける」ような透き通った美しい声。『君の名は』本編「入れ替わってる!?」シーンの『前前前世』の入りには度肝を抜かれたが、今回も期待を裏切らなかった。また「天気女」の能力は局地的・短時間という少し限定的であったことも、その儚さが歌声とマッチしていた。

ちなみに前談によれば、この素晴らしいボーカルを引き当てたオーディションは一年間も続けたという。

 

 

大抜擢といえば、主人公を演じた醍醐虎汰朗、森七菜を始め、キャスティングと演技力についても良く語らなければならない。両名こちらも全くの無名ではないが、このキャリアならではのフレッシュな勢いを感じた。青さにおいてわざとらしさが全く無い。そして小栗旬や有名声優たちの脇の固め方が非常に上手い。それこそ特に長編単発アニメ映画でよく見かける構図ではあるが、それぞれがここまでハマっている作品もそうないだろう。

特に帆高を演じる醍醐虎汰朗の演技には恐れ入った。後述するキャラクターの無茶な勢いに全く劣ること無く、むしろその声で観る側を引っ張っていくような感じさえした。ワクワクした。本気が伝わった。こいつが目の前に現れたら……あるいは公務執行妨害も辞さないかもしれない。

 

 

そう、ストーリーには多少無茶があったようにどうしても感じてしまった。

大前提として新海誠の作品は、リアルを超えるような作画を求める一方、表現の基盤はしっかりとアニメにあることを述べておく。例えば飛び跳ねて喜ぶようなシーンは重力をいくらか無視し、カブはまるで水切りのように水面を飛び跳ねる。

しかし……16歳の少年に銃を持たせることはフィクションとはいえあまりにもセンシティブにならざるを得なく、線路内(しかも復旧作業員が大勢いる)をなかなかの距離誰も止めることなく走り抜けられることに疑問を持たざるを得なかった。変電所を爆破するようなあまりにも想定外な無茶とリアルの欠如が、劇場でフィクションの映画を見ていることをしばしば自覚させられてしまった。少々置いてけぼりを感じてしまったシーンがいくつかあった。とはいえこれらはとても主観的な意見であることは留意してほしい。

 

 

ネガティブな意見を続けると、どうしても気になったのはスポンサーの多さである。もう間違いなく、『君の名は』の歴史的大ヒットにこぎつけて無尽蔵の営業があったのだろう。

劇中登場する商品のほとんど全てがリアルに再現されたパッケージで、なおかつ商品が常に「こっち」を向いていて、極めつけ登場人物たちがまるでCMのように見せてくるのは最低に気持ちが悪い。端的に言って邪魔である。映画とはエンターテイメントとビジネスの一線を画する特殊な存在ではないのか。クソ長い動画広告を見せられに来たのではないのだ。

果たしてこれらのコラボは、リアリティある生活描写の一部として、小道具として本当に必要だったのだろうか?このノイズはSNS世代の若者にウケるとでも思ったのだろうか?(私自身何の変哲も無い若者の一人であるが)

何よりあの求人広告アドトラックの消費的な広告を、このような素晴らしい映画で見かけることは最早残念で仕方なかった。リアルな新宿を忠実に描く上で、必要であったと言われればそれでおしまいなのだが。

 

 

最後にストーリーについて。

この映画には、明確なクライマックスがあったように思える。廃ビルの屋上へようやくの思いでたどり着き、天空にいるであろう陽菜に会いに行くシーンだ。何より感動的で美しいシーンであることの理由として、前後説明のあえての少なさが考えられる。作中序盤から現れる「魚」について、実はあまりこれといった説明は終始ない。最後東京が海と沈んでしまうことについても、自然は元々そういうものだといった程の落とし所である。

このいわゆる想像の余地の幅が絶妙であったと評価したい。身代わりとなって天空に囚われた陽菜にまとわりついていた魚たちといった状況はどういうことなのか?そもそもなぜあの鳥居が空と繋がっていたのか?全ての謎を解決させることはセンスのあることではない。決して多くは語らないスタイルが、最後の最後まで自然的世界を神的なものとしてうまく位置させ続けていた。人間の本能に訴えるような自然の偉大さや尊さを感じた。

 

 

最大のテーマはやはり愛であることは間違いない。今回も素晴らしい主題歌『愛にできることはまだあるかい』が証明の一つだ。

作中では、ちょっとの恩や、自己投影や、大切だと思える人への気持ちから生まれる様々な形の愛があった。特に「ほっとけないから」といったある種隣人愛的な要素が良い味を出している。理由ある行動として最大の説明であり、全体的な物語の進行の上で根本の良い原動力となっている。やはり小栗旬のキャスティングは良かった。

主人公2人のそれについては言うまでもない。終盤、2人が再開し抱き合って回るシーン(これも前述したアニメ的演出だ)が何より幸せそうで印象に残っている。

 

 

 

 

この映画を見た多くの人は、明日から空を見上げる時の気持ちが変わるかもしれない。朝起きて窓を開け、青空と共に一日が始まることに感謝と幸せを覚えるようになるといい。

 

 

 

一時代を築き上げたVOCALOID

今や国民的アーティストの米津玄師は元々ニコニコ動画から有名になったことは言うまでもない。当時は『ハチ』という名義で数々の名曲を生み出していた。

 

『結ンデ開イテ羅刹ト骸』が爆発的ヒット(「バズる」という言葉は当時無かった)、それからもどこか独特な生死感といったオリジナリティ溢れる世界観を繰り広げ、続々とヒット作を生み出した。

 

 

その背景にはかの名曲『メルト』があったことを説明しなければならない。

 

まず最初期のボーカロイドは、初音ミクによる「歌ってみた」など実験的で、新技術おもちゃ的な用途に収まっていた。

 

 

その様なVOCALOIDタグのついた動画が続々と投稿され始めたのは2007年。早くもその年内程なくして、続々とオリジナル曲が目立ってくる。

これには先立っての「電子の歌姫」という初音ミクに対するキャラクターの確立が大きく影響していると考えている。なんとなく曖昧な形で存在する初音ミクのイメージを、オリジナリティある各々の解釈を持って表現するような部分があった。

これは東方が同人文化として大きく育った背景と似ている。一本の共通する線の上で、オリジナリティを出しやすい基盤があったということだ。

 

 

 

そして2007年末、ニコニコボカロ創世記の代表曲といって差し支えない『メルト』が投稿される。

このアルバムアートワークはryo氏による「無断転載」であったのはご存知だろうか。逆にこれを縁にイラストレーターの119氏はsupercellに加入することになったことは、昨今のTwitterでの騒ぎを見るに今では少し信じられないような出来事である。

 

 

メルトの登場辺りからVOCALOIDの存在意義が大きく変わる。

簡単に言えば、「楽器」の一つとして使われるようになったのだ。

ソフトウェア技術の発展に伴いDTMのレベルとハードルが下がっていく中、唯一欠けていた「ボーカル」ソフトがある日現れたということだ。

作曲能力は十分にあるのに、環境のせいであと一歩満足には曲をつくることが出来なかった大量のアーティストをVOCALOIDは救った。

 

その後はVOCALOIDにしか出来ない表現といったことも求められた。

人間には出来ない芸当の代表として『初音ミクの消失』を始めとした「早口」な曲がある。また基本的に「高音」であることも特徴だろう。

 

 

 

こうしてVOCALOID同人音楽文化として完全に成立した2009年半ば、『裏表ラバーズ』が投稿される。

 

 

先程キャラクターといった要素について述べたが、wowaka氏の作品はその逆を行くスタイルであった。

wowaka氏のサムネイルは全ての作品が白黒2色の幾何学模様で描かれている。タイトルにこそしっかりと記述として存在があるものの、そこに初音ミクの姿はないのだ。

アートワークにキャラクターが描かれていない作品は当時のみならず今でも珍しい。ニコニコ動画はコメント機能によるSNSの側面が強く、基本的にはこのサムネイルもコメントしやすい見所であるからだ。

 

 

 

それからの歴史はここでは省略する。数々の名曲シーンはこの記事では書ききれない。

 

 

 

そしてかつての時代を築いたボカロPたちの何人かは、約10年のうちに活動をリアルの場に大きく広げた。

 

記事冒頭で述べた米津玄師は昨年遂に紅白にまで登場した。supercell(それにEGOISTも)はやなぎなぎを始めに自分のみならず数々の天才を世に送り出した。ClariSを一躍有名にした『irony』は、googleのCMとタイアップし初めて初音ミクが公の電波に乗せたkz氏が作曲である。

じん、LastNote.の両名は曲のみに収まらない、今や当たり前のメディアミックスの文化を成立させた。

単身ではなく「歌ってみた」アーティストとのコラボGARNiDELiA、REOLの活躍も凄まじい。

そしてwowaka氏率いたロックバンド「ヒトリエ」の活躍も今後決して忘れることはできない。

 

 

このようにニコニコからメジャーデビューを果たしたアーティストは気づけば数多く、ネット音楽はマイナーなオタク文化に収まらず日本の音楽シーンに欠かせない存在となった。

 

 

 

 これからのネット音楽文化の、廃れることのない永続的な繁栄を切に願う。